立花師、池坊専応(1482- 1543)は《専応花伝書》で「枯れた花にも華がある」と述べ、
みずみずしさの影が醸す寂びしさの中に静かな赴きがあると捉えた。
浄瑠璃作家、近松門左衛門(1653- 1725)は《虚実皮膜論》で
「虚構と事実の微妙な間にこそ人を惹きつける芸術の真実がある」と説いた。
文人、岡倉天心(1863- 1913)は《The Book of Tea, 茶の本》で
「不完全なものを前にして、それを心の中で完全なもの
に仕上げようとする精神の動きに美がある」と説いた。
私は、私自身の表現を行う上で、その背景やアイデンティティに「日本の美意識」がはたらいていると感じ、そして切り絵と出会った。
切り絵の持つ「もともとある素材から余分なものを削ぎ落として完成に至る」という過程に惹かれ、やがて影というテーマに辿り着いた。
「切り絵とは紙の中から影を取り出す行為である」という考えに至ったとき、表現の主軸は実像から虚像へと移ろいだ。
私は、土地や環境の中に身を置いて、自分の感覚をもとに事物の流れを掬い取り、影を表現するための装置として作品や空間を構築する。
人がそれに虚を見出し、虚実の境界を行き交いながら調和していくはたらきが芸術であり、ここに私の美がある。
私は、私自身の表現を行う上で、その背景やアイデンティティに
「日本の美意識」がはたらいていると感じ、そして切り絵と出会った。
切り絵の持つ「もともとある素材から余分なものを削ぎ落として完成に至る」
という過程に惹かれ、やがて影というテーマに辿り着いた。
「切り絵とは紙の中から影を取り出す行為である」という考えに至ったとき、
表現の主軸は実像から虚像へと移ろいだ。
私は、土地や環境の中に身を置いて、自分の感覚をもとに事物の流れを掬い取り、
影を表現するための装置として作品や空間を構築する。
人がそれに虚を見出し、虚実の境界を行き交いながら調和していくはたらきが芸術であり、
ここに私の美がある。
二重の影からなるインスタレーション。
鑑賞者は、切り絵 (シルエット) と影 (シャドウ) からなる「二重の影」
によって構築された虚実曖昧の空間との調和を体験する。
作者が特定の地域を歩いて見つけた「実在するシルエット」
の組み合わせからなる切り絵は、影のように平面の性質を持つ。
切り絵は、光を受けて影を映すことで場と調和し、風を受けて回転することで時間と調和する。
二重の影からなるインスタレーション。
鑑賞者は、切り絵 (シルエット) と影 (シャドウ) からなる「二重の影」
によって構築された虚実曖昧の空間との調和を体験する。
作者が特定の地域を歩いて見つけた「実在するシルエット」
の組み合わせからなる切り絵は、影のように平面の性質を持つ。
切り絵は、光を受けて影を映すことで場と調和し、風を受けて回転することで時間と調和する。
「私たちは、精神や肉体といった自他の境界を持っていて、
調和を求めることはできても同一化することはない。
しかし影という、大きさ・形状・色などの要素が曖昧になった世界では等しく混ざり合うことができる。
それは虚像たちの営みにすぎないが、実像である私たちに作用しないとも限らない。」
私たちは、精神や肉体といった自他の境界を持っていて、
調和を求めることはできても同一化することはない。
しかし影という、大きさ・形状・色などの要素が曖昧になった世界では
等しく混ざり合うことができる。
それは虚像たちの営みにすぎないが、実像である私たちに作用しないとも限らない。
流木のオブジェ。 鑑賞者は作品を通して樹 (立つもの) の物語を見る。
「海で流木と出会ったとき、それはすでに過去という影を持っています。
樹 (立つもの) として生きていた時間。川や海で漂流していた時間。
長い時間の中で無数の作用がはたらき、そして削ぎ落とされ、
最後まで残った確固たるものを「流木」と呼び、私はそこに物語を見るのです。」
流木のオブジェ。 鑑賞者は作品を通して樹 (立つもの) の物語を見る。
「海で流木と出会ったとき、それはすでに過去という影を持っています。
樹 (立つもの) として生きていた時間。川や海で漂流していた時間。
長い時間の中で無数の作用がはたらき、そして削ぎ落とされ、
最後まで残った確固たるものを「流木」と呼び、私はそこに物語を見るのです。」